暴走の音にイラッとした時

暴走する車の爆音を耳にした時に

彼らに その思いを ぶつけるように「死ねっ!」という

人がいる。

教師時代、卒業生に子供が産まれたという。

遊びに来て!と言われていた。

何度か伺ったけれど、旦那様はお留守

だった。「旦那さんは?」「お葬式」

何回か、そんなことがあった。

「えっ?また、行ってはんの?」

「私らな、よう死ぬねん。車で走るし」

こんなことも言っていた。

「私らな、皆同じやねん」

彼女はある意味、不幸な生い立ちだった。

ご主人も、その友人達も皆、ということらしい。

その時、暴走の爆音に対して、言う「死ね!」

という言葉が、利いて仕舞うのだと感じた。

それでなくても、彼らは、死から遠い、

安定した精神状態ではない。

愛されずに育ち、より、死に近い人が、

何かの鬱散をしようとして走っている。

ただのバイク好きもおられると思う。

でも、そういう方は走り方が違うような

気がする。

勿論、暴走を肯定等出来ない。

だけど、あの音を聞いた人が、彼らの

苦しみを感じて、「死ね」じやなく

「生きて!」と声を掛けて貰えたら

翌日には、バイクを降りているかも

知れない。

 また、「死ね!」の一言で、殺人を犯す

不徳も積まずにいられる。

もちろん、たった一言で!死ぬとは思えな

い。でも、そう言われる人が 死ぬか生きるかのギリギリにいる人なら、ほんの小さな一押しが効いて仕舞う可能性がある。

そう言った人が、とんでもない念力を持

ってないとは言い切れない。

また、そんな迂闊 な一言が周りまわって我が子に降り掛からないとも限らない。

今度、あの爆音を聞いて、イラッとした時

に「生きて!」とか「生きろ!」と思って貰えたら、どんなに大きな徳を積むことか。

ここは、不思議なとこだけど、不徳も積徳

も等倍では帰って来ず、何倍かになる。

それは、一体、なぜ?

積徳の方は、稀有なことだから、だそう。

そして、不徳の方は それこそ暴走しがちだからだそう。

銀行より、その利回りは全然、良い。

何倍にもなるのは、結局、魂で学ぶべき事の、より深い定着を目指しているからかも

しれない。

40年も前に、友達だった人達の幸福を

願って、どうか そんな風に 思ってもらえた

らと思っています。