私は阿保や、けど、この阿保が治らんがお題
あるイベントで、見えない方が、友人に付いて来た。
自死されたのか、とても困っておられる。
自死されると、長い痛みに苛まれると桜井識子さんが、おっしゃっている。
この友人にあって以来、一日2回の自宅での浄め詣りが、欠かせなくなった。
しなければ、お腹が痛くなる。
ほんとうなら、その友人が荒神さんに行ってくれたら良いのだけど、そうもいかないらしい。
こう何度も、浄め詣りをさせられるのは、しんどい。
こう言っては、なんだけど、この方は、どうも、ちっと聞き分けがない。それ程、お苦しみと言うことかもしれない。
思いきって荒神さんに、お詣りをすることにした。
亡き元夫なら「よかったやん、行く言い訳が出来た」といいそう。
確かに、そういうところもある。
何をきっかけにしても、あの美しい清らかな世界に行けることは、確かに無上の喜び。
だけど、今は家中の荷物を大運動会している。
自分でクロス張りもしようと思い立った。
なのに、荒神さんに行く。
ただ清らかなあそこに行くだけじゃない。
沢山の方をお連れしたらしい。
こういう時の、お詣りは、叉別。
もう、へとへと、くたくた、になる。
そんな他人の事、捨て置いたら良いと思う。
(ほんまに「私はあほや」と。
ところが、また、このあほが治らん。)
これが、このところのマイ流行語で、今週のお題。
でも、今晩のお風呂の神さんが、
『だからな、この事は、値打ちあることなんや。
他人事と思うてみても、せっせと、荒神さんに、お繋ぎをしたらな。
あとで、わかるで。
こうしたことが、皆、実をむすぶからな。』
ですって。
実際のところ、中々、自分の生活が、ちゃっちゃといかない。
焦れる事もある。
でも、以前、自死された方のお清めのとき、何代か前の方も来られた事があった。
どこかで止めないと、何代も続く事があるらしい。
お一人をお連れするつもりでも、何人も何十人も来られるらしい。
よく、自死は、アカンと言う。
ほんとにそう。
自分の子孫が自分のせいで、何十人も自死す
ることになるなんて、ほんとあかんでしょう。
こんな辛い人生のどこかで、弘法大師さんに
お逢い出来たら、きっと救われるよね。
お大師さんだけじゃなくて、なんかこう
親身になってくれる人に。
だから、あれか、どんなに小さな徳でも、積みなはれ!
それは、積もり積もって、ブーメラン救世主にあえるとか?
まあ、なんし、自死だけは止めときましょね。
じゃあ、苦しくて苦しい時は、どうする?
問題、それよ。
お委せにする。神さんに
そんな離れ業が出来たら、
自死なんかするかー!
そう、そうなんだよね。
ちょっと待って!
こんな難しい問題は、あかん。
大体、難しすぎるやろ!
そう、こんなん分かったら、地球は、一発平和だ。
今の私なら、何処かの神さんに「助けてー」
って、行く。
でも、世の中は、神さん好きばかりじゃない。
やっても死なない自殺の名所があったらなあ。
そんなとこには、誰も行かん。
結局、だから、私は阿保になって阿保が治らんまま
生きていくことにしてる。
これが、今週のお題。で、やっぱり私の一生のお題。